1980年頃移転直後
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2016年夏の風景
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正門。入って左の守衛室の屋根に夕日が映えている。入学の頃は桜が満開であった。移転後、箕面に移植されたものが多く、もはや往年の賑わいはなくなってしまった。この数年後に大阪国際交流センターの建物が建って、すっかり様変わりしてしまう。戦争前、まだ三階建てだった校舎は、正面からどのように見えたのだろうか。 |
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右上が現在の姿。両側に高層ビルが建ち、大阪国際交流センターはこじんまりとして見える。センターができた後に、大阪市の規制が緩和され、高層ビルが建てられるようになった。規制緩和が早ければ、そもそも移転せずに、この地に高層の学舍を立てられたはず。 |
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南グラウンドに通ずる道、角に喫茶店カルチエがあった。授業の合間によく来て、コーヒーを飲みながら、おしゃべりをした。1975年から76年にかけて、まだ大学院生だった杉村先生がここで分厚い本を読んでいる光景が目撃されている。 |
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南グラウンドに通ずる道の角ではないが、府立夕陽丘高等職業専門校の向かいあたりで、「カルチエ」発見。移転したものか、全然関係ない別の喫茶店なのか、わからない。看板の字体が同じなのだが… |
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南門。天王寺方面から通学する学生には、正門よりこちらの門の方が近くて便利だった。写真ではわかりにくいが、門柱にペンキで「造反有理」と書いた跡がうっすら残っている。大学紛争の名残である。左方の柵のある植え込みの上にかすかに見えているのは、近鉄百貨店上本町店の看板である。条例によって高層ビルを建てられなかった時代だから、こういう光景もあり得た。 |
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(↑)旧南門を入った辺りを東側から撮る。HOTEL INTERNATIONAL HOUSE OSAKAと読める。この向かい側に、旧大阪外国語大学の跡地を示すモニュメント(↓)がある。 |
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大阪外国語大学発祥の地
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南門の道路を隔てて反対側に南グラウンドがあった。体育の授業でバレーボールやソフトボールをやった。移転前は教室が不足していたので、この南グラウンドに仮設教室を建てて、授業していた。 |
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南グラウンドの土地は、現在はTIMESの駐車場になっていた。土地の半分は、後方に見える4階建てのビルに変わったものと思われる。 |
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南グラウンドを隔てた向かいの建物は校舎の新館である。四階建てで、地下に生協食堂が、屋上には大学院生用の仮設の控室があった。車のすぐ向こう側が南門である。後方の壁面に黒く四角い窓のようなものが見えるが、これは生協食堂の明かりとり用の窓である。 |
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大阪国際交流センターホテルが、旧大阪外大の新館とダブっているのが興味深い。止まっている車がカロ―ラ?からプリウスになっている。ホテルのビュッフェが地下にあるが、生協の地下食堂の空間をそのまま使ったかのようだ。 |
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校舎の西側にある上汐町公園。この公園は今も存在している。この公園の更に西側に大学祭で語劇を上演するのに借りた中小企業会館があったのではないかと思う。 |
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上汐町公園は今も健在。サラリーマンらしき人たちが、水を飲んで休憩したり、スマホを見たりしている。この向こうにあったはずの中小企業会館は見つけられず。 |
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在学中、ほとんど気にしたことがなかったが、この建物はたぶん図書館である。外から見るとこんなだったのか、と認識を新たにした次第。在学中、外からながめることは皆無だった。校舎の外周道路の北西の位置から撮った写真。 |
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外周道路北側。後方が上町筋で、この少し北あたりに一心ビルというのがあって、その2階に、中国語学科の卒業生横田量夫さんが開いた「横田書店」という中国書専門店兼古書店があった。 |
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こういう景色も記憶にある。ただどの位置だったか、記憶はあやふやである。明治生命の看板と塀と木の様子からみて、校舎の南側の公園の付近かと思われる。 |
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サバンナとかアラスカとかもあったな。