大阪外国語大学の教授そして最後の学長を務められ、その後、立命館アジア太平洋大学(APU)でも孔子学院長および学長を務められた是永駿先生が、2024年1月27日、急性心筋梗塞のため、ご逝去されました。APUでは、7月4日に「是永駿先生を偲ぶ会」が開催されました。中国文芸研究会では、2025年に是永先生の御研究に関するシンポジウムを開催する計画があるそうです。長くキャンパスでともに過ごした私たちも思い出を語る機会をもちたいと思いましたが、なかなか一堂に会する機会をもつことが難しく、ここサイバー空間で、それぞれの思いを綴ってはどうか、ということになりました。追悼文集という形で出版することもあり得るのですが、どれくらいの方がご寄稿くださるか、予想が難しいこともあり、まずはネット上で始めてみることにしました。皆様の思い出話を楽しみにしております。なお、ご寄稿はこの呼びかけ文に「コメントする」形で、画面下のフォームからお送りください。コメントの際に記載された皆様のメールアドレスをサイト管理者が承認すれば、投稿が順番にこの画面の下に表示されます。メールアドレスは表示されません。承認に時間がかかることもありますので、すぐに本文が表示されなくても何度もお送りしていただかなくて構いません。承認手続きは、ロボットやハッカーによる乗っ取りを防止するためですので、ご了承いただければ幸甚です。
ではご自由に思い出を書き込みください。
呼びかけ人
大阪大学名誉教授 青野繁治
大阪大学外国語学部中国語専攻代表 深尾葉子
元立命館アジア太平洋大学教授 西川孝次
追手門学院大学教授 李慶国
協賛
大阪大学人文学研究科外国学専攻長 竹村景子
大阪大学外国語学部長 筒井佐代
是永先生を送る
是永先生が大阪外大に赴任されたとき、私は大学院生で、まだ大学院の授業を持たれていなかった先生の授業を受ける機会はなく、初めての対面もあまり記憶にないのが正直なところですが、後輩の学生たちが、「是ちゃんの授業出てきたよ」など噂話をするのを耳にしてお人柄を感じ取っていました。研究テーマが同じ茅盾という作家でしたので、その後は折に触れて、研究会の場でご指導いただきました。私が初めて公的な場に茅盾についての論文を書いたのは、是永先生の編集された中国文芸研究会『野草』の茅盾特集でした。
是永先生は、今はなき太田進先生、阪口直樹先生たちと茅盾研究会を結成して事務局を務められ、私も末席に加えていただきました。
私が大阪外大に赴任してからは、中国語教室や教授会、大阪外国語大学世界文学研究会でご一緒してお世話になりました。
附属図書館長を経て学長に就任されましたが、国立大学の独立行政法人化と大阪大学との統合に尽力されました。
思えば、お世話になりっぱなしの外大時代でした。まことに感謝にたえません。阪大から博士号を出すことができたことと、叙勲に際して阪大言語文化研究科中国語教室と中国語卒業生の同窓会「鵬翼会」と合同で、お祝いの席を設けることができたのが、ささやかな恩返しであったと今は思っております。
その叙勲祝いの席には、東京からも教え子が集り、「先生は名前を覚えておられないと思いますが誰々です」と授業の思い出を語る教え子たちのスピーチを拝聴するにつけ、こんなに慕われる先生だったのだと、認識を新たにさせられました。
是永先生の業績は、博士号取得論文となった茅盾研究書「茅盾小説論」だけでなく、中国現代詩の分野でも多くの翻訳や紹介のエッセイがあり、創作の面でも詩集や句集を出版されました。
同窓会誌『鵬翼』にも鋭く社会を批判するエッセイを発表されました。
これからもさらなる御活躍が期待されておりましたのに、このように突然逝ってしまわれるとは、まさに晴天の霹靂でした。学術界の大きな損失を思い、本当に残念でなりません。
是永先生、本当にありがとうございました。どうぞ天国でも安らかに過ごされますようにお祈りしています。
2023年2月2日
大阪大学名誉教授 青野繁治
(以上は『鵬翼』23号に掲載したものです。)
2024年2月2日(金)通夜での弔辞
先生とこの前お会いしたのは昨年の12月のことでした。その時、暖かくなる3月下旬ごろにまた集まって楽しくやりましょと、確かに約束しましたよね。なのに、このようなことになるなんて、あまりにも突然すぎて、どうしても信じることができません。
思えば、先生と初めてお会いしたのは、確か90年代の後半でしたか、大阪外大中国語学科の同窓会である「鵬翼会」の設立準備会のときだったと思います。2007年春、大阪外大の学長室で孔子学院と中国語教育の件でいろいろとお話を伺いましたよね。縁とは不思議なもので、その半年後の2008年4月、先生は立命館アジア太平洋大学(APU)にご着任、言語教育センター長兼孔子学院長として精力的に仕事をなさいました。その下で仕事をさせていただいて以来、先生には本当にお世話になりました。先生が最初にされたのは設立されたばかりのAPU孔子学院の認知度を上げようと大分県知事を始め地元の政財界人を顧問に迎えることでした。いまでも思い出すのは、その際先生のお供をして大分合同新聞社の社長に会いに行ったときのことです。社長が「ああ、あなたがベンさんの息子さんでしたか」と言われ、話が弾みに弾みました。帰りの道で、父君が昔、大分合同新聞の記者をされており、そのとき別府を紹介する連載記事『別府今昔』を執筆されていたことなどを楽しく語っていらっしゃいました。それから数か月後、先生から「あの『別府今昔』なあ、本にしてまた出版するんや。前からやりたいと思っていたのや。これでやっと親爺への孝行ができた気がする」とすっかり板についた関西なまりでおっしゃっていました。また大分市に住んでいらっしゃった母君が時折、別府にある先生のマンションに来られて部屋を掃除されて帰られることが多々ありましたよね。そのたびに「きょうはおふくろが掃除に来てくれるんや」と嬉しそうにされていました。当時、先生は60歳台ですから、母君は相当のご高齢だったはずです。「息子がこんな歳になっても、母親の目からは子供なんやねえ。ホンマ、ありがたいことや」。この言葉をよく聞かされましたよ。「先生、今晩、空いたはりますか?」って尋ねると、きょうは「おふくろのところに行くんや」と嬉しそうな顔をされていましたねえ。別府赴任の機会を生かして親孝行に尽くされているなあと感じさせられたものです。
そうそうこんなこともありましたよねえ。北京で開かれた孔子学院大会に村山富市元首相がAPU孔子学院顧問として参加されたときのことです。飛行場に出迎えに来た中国側から、翌日の開会式で村山元総理から挨拶をお願いしたい、その際、挨拶原稿の中英二言語版を同時通訳の参考資料として提出もらえないかとたのまれました。それであわてて、村山元総理に事情をお話しして挨拶される内容を事前にお伺いし、中国語は是永先生が、英語は私ということで、突貫工事で翻訳を仕上げたことを懐かしく思い出します。
先生が学長に就任されたのちも、孔子学院や言語教育センターの業務で中国の大学を一緒に訪問することがよくありました。そのときいつも感心させられたのが、会議や宴席で流暢に、そしてあるときはユーモアたっぷりに笑いを誘いだし、雰囲気を和らげようと話される先生の見事な中国語でした。「ああいう表現がすっと出てくるところってすごいですね」って申し上げることが多々ありました。すると決まって、師の相浦先生がどれだけ上手な中国語を使われていたか、を説明されるのでした。「場面に応じて故事成語や熟語がさりげなく口から出てくるところなんかはまるで中国の知識人が話しているのではないかと中国人でも言うほど上手だった。それが相浦先生だった。とにかくたくさんの書籍を読み、言語だけでなく文学論にも精通されていた、それに比べれば、自分なんかはまだまだ勉強が足りない、だから勉強あるのみですよ」ってよくおっしゃっていました。恩師を心から敬愛されているのがよくわかりました。
先生のマンションの近くにあったすし屋にもいっしょによく行きましたよねえ。健啖家だった先生はとにかくよく食べ、よく話されました。中国の近代文学や世相のことなどいつ聞いても、知的好奇心を刺激されました。「最近、夜はマクルーハンの著作を原書で読んでいる」と聞かされたときは本当にびっくりしましたよ。先生、お忙しいんだから日本語版を読んだ方が時間の節約ができるのに、と言う私に対し、いや原書で読むところに味わいがあるとおっしゃっていました。
思い出すことはいっぱいあります。
言語教育センターや孔子学院の業務にもいつも関心を寄せていただき、暖かい言葉で励ましていただきました。外大中国語の後輩ということもあったのでしょう、いろいろと可愛がっていただきました。私の職業生活の最後の十年間を先生の下で送ることができたことは実に幸せでした。感謝しております。本当にありがとうございました。
どうぞ安らかにお休みください。そしてどうぞ私たち後輩を暖かく見守ってください。
(2,055字)
2024年2月2日 西川 孝次
(元立命館アジア太平洋大学教授、言語教育センター長)
惜別の辞
2024年2月3日
於:公益社枚方会館
田原洋樹
是永先生!
APUの田原です。先生にお礼を申し上げたくて伺いました。たくさんの教職員が、別府から駆け付けたい気持ちを抑えて、心の中で手を合わせています。
初めてお目にかかったのは2007年10月。大阪外国語大学の大阪大学との統合という大事業を遂げられて、晴れて自由の身となられて1ヶ月が経ったころでした。わたしが担当していた科目『アジア太平洋の諸言語』の中国語の回にご出講をお願いしまして、別府北浜のバス停にお迎えに上がりました。長身で、ハンサムで、おしゃれな先生のお姿にびっくりしました。その夜は、ろばた焼き屋で、ふたりでじっくり話しました。寡黙な先生は、ひとことひとこと、言葉を選びながら、紡ぐような感じでした。初対面で、いきなり惚れてしまいました。大学の統合について尋ねると、「それは歴史が決めること」と笑顔でおっしゃり、「でも、ひとつだけ誇れるのは、今回の統合でひとりの教員も失職させずに、全員が阪大の教員となったこと。学長ポストがなくなったので、唯一失職したのがわたし」と丸い目をぱちくりさせて話してくださいました。
翌日の授業は1,2時限目の連続講義でした。休憩時間に、是永先生のもとに女子学生が進みました。「わたし、大阪外大に行きたくて、箕面のオープンキャンパスに行きました。是永先生が学長としてお話しされていました。結果として、わたしはAPUにいますが、今朝教室に来たら是永先生が教壇にいるのを見てびっくりしました。うれしくて、先生に会いに来ました」ということでした。この半年後に副学長に就任され、さらに学長としてお導くくださる時間を含めて約17年、本当にかわいがってくださいました。
わたしたちは、ご家族のみなさまに無理なお願いをして、是永先生を長い間APUにお借りしていました。少しですが、別府でのご様子をご家族のみなさまにお話しして、是永先生をお偲びしたいと思います。
是永先生、ご家族のほうを向いて話してもいいですか。
先生はご自身をひけらかすことなく、いつもさわやかでいらっしゃいました。わたしをかわいがってくださったのは、きっとご令息の是永淳先生とわたしの歳が近かったからだと思いますし、高名な地球物理学者の淳先生に比べて、不出来でチンピラな田原へのやさしさだったのかもしれません。先生は淳先生の学問を大変に誇りにしていらっしゃいました。あるときに、「ねえ、田原さん。研究費、どのくらいあるの?」と尋ねられました。わたしは精いっぱいの見栄を張って、大胆に四捨五入して、「科研費、本や辞書の印税で年に200万くらいです」と答えました。「じゃ、うちの息子はすごいんやね。2ケタ違うわ。年間2億だから」とおっしゃいました。こういう場面は返事に困るのですが、金額の差よりも、淳先生に対する先生のご愛情に軽く嫉妬しました。
また、先生はマツジュンの話をよくなさいました。お嬢さまが松本潤のファンということでしたが、わたしには是永先生とマツジュンがよく似ているように見えました。先生ご本人にも「マツジュンに中国文学を研究させて、高齢者に仕立て上げれば、先生そっくりだと思います」と申し上げると、苦笑されていました。でも、昨夜にお嬢さまのお顔を見て、わたしは自分の考えがまんざら間違ってなかったと思いました。大切なお父さまが遠くにいらっしゃってさびしいお気持ちを、先生によく似たマツジュンに重ねていらっしゃったのかもしれません。お嬢さま、わたしたちAPUが先生を別府に長くお引止めしたばかりに、さびしい思いをさせてしまい、申し訳ありませんでした。お嬢さまのために数学の勉強をしている先生のお姿は、素晴らしい父親像そのものでした。
是永先生とお食事をご一緒するのは、本当に本当に至福のひとときでした。好きな寿司のネタはシャコ。フレンチでは赤ワインとステーキがお好みでした。毎回、食事の途中で携帯電話を取り出して、奥さまへラブコールしていました。「愛妻家ですね」と冷やかすと、「高齢者だから、生存確認。家内が心配するので」と、大いに照れていらっしゃいました。どんなときにも、先生のお心の中には奥さまとお嬢さまがいらっしゃいました。
わたしが本や辞書を出したときに、真っ先にお手紙をくださるのが是永先生でした。ブルーブラックのインク。万年筆、やや細めの文字。必ず全編をお読みになったうえでの書評でした。ベトナム語の音声教材は、わたしの前で発音してくださいました。「あなたの説明どおりにやるから、正しいかどうか確認してください」ということでした。
コロナ禍では、先生からは落語のご本を推薦いただき、わたしからは伝説のストリッパー・一条さゆり女史のドキュメント『踊る菩薩』や、小沢昭一、永六輔両氏の昭和風俗史対談などをお勧めして、いずれも鋭い読後感を封書でいただきました。先生の書斎に一条さゆりの本や写真集があっても、奥さまとお嬢さまには誤解なさらないようにお願い申し上げます。田原の趣味に是永先生がお付き合いくださいました。
是永先生とは、京阪電車のアナウンスについても話しました。関東では「扉が閉まります」なのに、京阪は「扉を閉めます」「扉を開きます」ですよねとか、交野線、宇治線と言うときのアクセント、「お乗り換えです」のアクセントなど、ささいなことばかりですが、「さすが言語学者やね」とほめてくださる、そういうやさしさにわたしやAPUの仲間は幸せを感じていました。
是永先生と田原のお約束は、高橋真梨子さんのディナーショーにふたりで行くことでした。真梨子さんはディナーショーを卒業されて、先生は旅立たれて、これから先にわたしは『桃色吐息』を誰と一緒に聞けばいいのでしょうか。悲しいです。
是永先生が愛してくださった立命館アジア太平洋大学!
米山裕先生を学長にお迎えして、もっともっと素敵な大学になっていきます。米山先生のやさしくて滋味のあるリーダーシップで、是永先生が夢見ていらっしゃった理想の学園へ一歩ずつ確実に近づいていきます。
是永先生が天国でこの世をご覧になったとき、世界中からたくさんの若者が集い、たくさんの青春が輝き、そしてたくさんの言語が響いているところがあれば、そこがAPUです。
どうかいつまでもAPUの是永駿先生でいらっしゃってください。
先生、ありがとうございました。
ご家族のみなさま、ありがとうございました。
2,622字
2024年2月3日
立命館アジア太平洋大学教授 田原洋樹
是永駿先生を悼む
青野 繁治
大阪外国語大学の最後の学長を務められた是永駿先生が、2024年1月27日、枚方の山田公園をご家族と散策中に、急に胸が苦しいとしゃがみこまれ、緊急搬送されましたが、急性心筋梗塞のため亡くなられたとのことです。満80歳でした。
是永先生は1943年福岡県生まれ、大分県立舞鶴高校を卒業、新聞記者であった父親の蔵書に世界文学全集があったため、これを愛読し、魯迅文学に興味をもったことから中国文学を志し、大阪外国語大学中国語学科に進学しました。卒業後は商社や出版社に就職されましたが、1969年に大阪外国語大学に大学院が設置されたのを機に退職、外国語学研究科第一期生となり、修了後は鹿児島経済大学助手、大分大学講師を経て、1980年助教授として、粟生間谷に移転して間もない母校大阪外国語大学に赴任されます。1989年に教授昇任、1997年には大学院言語社会研究科博士指導教授を兼任されました。2000年5月より附属図書館長、2003年3月より大阪外国語大学長、2004年4月からは国立大学法人大阪外国語大学長を歴任され、大学の法人化及び大阪大学との統合に尽力されました。この間、『芒克(マンク)詩集』など一連の中国現代詩の翻訳と研究が評価され、1991年に第29回藤村記念歴程賞を受賞しています。
是永先生は大阪外国語大学長離任後、立命館アジア太平洋大学教授、同孔子学院長、同学長、立命館大学副総長などを歴任されました。2012年に大阪大学で、『茅盾小説論』(汲古書院)により、博士(言語文化学)の学位を取得されました。2019年には瑞宝中綬章を受賞されました。立命館アジア太平洋大学を離任されてからは、中国現代詩論をまとめようとされていたそうで、今後の活躍も期待されておりました。
是永先生が大阪外大に赴任されたとき、私はちょうど大学院生で、先生はまだ大学院の授業を担当されていませんでしたので、授業をうけたことはありませんが、中国文芸研究会や茅盾研究会でご一緒する機会が多く、的確な助言や批判をたまわって、支えになっていただきました。大連に日本語を教えに行かれることになったとき、伊丹空港まで見送りに行った記憶があります。まだ関西空港がなかった時代の話です。相浦ゼミで『人民文学』作品批評会を関西大学の大学院生と合同で行なったときは、私たちが書いた作品批評文を是永先生がとりまとめて、中国語に訳し、人民文学編集部に送ってくださいました。それは『人民文学』1980年11月号に掲載されています。また相浦ゼミの延長で、『人民文学』に描かれる文化大革命後の中国の社会状況は、戦後の日本に似ているといって、戦後日本文学の読書会をしたこともあり、そのとき是永先生が梅崎春生の『桜島』を取り上げられたのを覚えています。同志社大学の太田進先生や阪口直樹先生、天理大学の下村作次郎先生、横浜国立大学の白水紀子先生らと結成した日本茅盾研究会で会報の編集を担当されたのも是永先生で、会報は8号まで発行されました。大阪外大でも世界文学研究会の代表をつとめ、『世界文学』の編集をされたこともありました。
2003年に中国の清華大学(北京)、復旦大学(上海)との交流協定の話し合いのため、先生と私と事務の明渡さんや村上さんと中国に出張したとき、北京や上海で活躍する多くの教え子たちが集まってくれました。
毎年1月2日に相浦先生がゆかりの深い教え子をあつめて開かれていた「ギョーザの会」を、相浦先生の死去後もご夫人綾子様、令息聡様、令嬢玲子様が主催されて続けられたので、是永先生も毎年出席されていて、これがプライベートなお話のできる数少ない機会でしたが、そのおかげで、是永先生が外大学長を退任されてからもお会いする機会がありました。
瑞宝中綬章を受賞されたときに、中国語の同窓会鵬翼会でお祝いの席を設けることができ、記念の講演をしていただいたのを、つい最近のことのように思い出します。その講演で近年注目されている中国のSF小説『三体』について、膨大な中国語の原書を読破して批評されていたのは、私には大変な驚きでした。
私がずっと抱いてきた是永先生のイメージは、様々な問題を処理する能力がとても優れた方だ、というものです。大阪外大でも立命館アジア太平洋大学でも、その力を十分に発揮されたのだと思います。これからはそういう実務から解き放たれて、研究の業績をまとめられるものと思っておりました。是永先生の急逝は私にとっては青天の霹靂そのものでした。ずっとそばで見守ってくださった先輩の先生がいなくなって、これからの自分の仕事を誰が見てくれるのだろうか、軌道修正してくれるのだろうか、と思うと途方にくれる思いです。
今となっては、是永駿先生のご冥福をお祈りすることしかできません。先生、やすらかにお休みください。(本文は、大阪外国語大学名誉教授会の年報に掲載したものをもとに若干補足してあります。)
李慶国先生「生命不息,求索不止」
是永先生への追悼文
私はヒンディー語を専攻する者ですが、学生時代・教員時代を通じて、東洋語科ではスタッフ・カリキュラムとも最も充実した中国語学科を常に意識して目標としてきました。例えば、私の学生時代には、ヒンディー語の語学実習は週4コマしかないのに、中国語学科は週7コマもありました。教授の数もヒンディー・ウルドゥー合わせて一人(助教授はゼロ)しかいなかったのに対し、中国語学科には教授・助教授とも3人ずつおられました。同じ大学で、なぜこうも違うのか?と思ったものです。 私は、中国語学科の伊地智善継先生の学長時代に学生課長を1年間勤めたことがあります。上司たる伊地智先生とは仕事以外のことで雑談できる時間がありました。とくに土曜日の午後など。(80年代の学長は現在ほど多忙ではなかったようです)博学な伊地智先生から学問や語学教育論について非常に有用な知識を伝授していただき、大きな影響を受けました。若手のスタッフであられた是永助教授もその中国語学科の伝統の継承者であられることを意識して、学内の研究会でご一緒したものです。 中国語学科の語劇は先輩たちが指導したり学生たちがカンパを集めて雑誌を編集したりして全学科が一体となって取り組むことで定評があり、中国語劇は、一番多くの観客を集めていました。私は阪神・淡路大地震がきっかけで、神戸のインド人たちの前でヒンディー語劇を上演したいという一部学生の要望を取り入れて語劇の指導をするようになりました。その後、本場のインド各地で上演することにまで発展しました。これも間接的には、二部中国語学科の有志学生が上海かどこかで、「夕鶴」の中国語バージョンを上演したということを耳にしたことが刺激となっています。国情の違いもあって、インド公演を学生たちだけに任すわけにはいかないので、私とインド人教師は出演学生の発音や演技指導を行いました。 こういう活動は、学長になられていた是永先生の耳にも入り、ある教授会の席で、先生は、私の名前も語科の名前も言及せずに、「私はこうした活動に敬意を評します」とはっきり言われたことに感激いたしました。神戸公演には、遠方にもかかわらず、3回も観劇にお越しいただきました。そして、1997年から退職時の2007年まで毎年、インド等の6ケ国で合計79回にもわたって行った海外公演にも物心両面で激励をいただき、定年直後に出版した『旅芸人は楽しーヒンディー語劇海外公演の記録』という著書に、陳舜臣先生とともに、ありがたい「巻頭言」を書いていただきました。これは私の語学教師としての最も貴重な思い出の記録となっています。 退職後はあまりお会いできなくなりましたが、2017年に通訳の仕事で別府市に1ケ月近く滞在したことがありました。その頃、先生は同市内にある立命館アジア太平洋大学(APU)の学長をされており、仕事を終えてから、気楽に同大学を訪問したところ、直ちに別府市内の一流料亭に招待されて10年前の昔話に花を咲かせました。一度ならず、2回目には、私の滞在するホテルにわざわざ車で迎えにこられて、やはり静かな料亭で二人だけで歓談するという実に楽しい時間を過ごさせていただきました。このように、先生には私はいつも一方的に世話になるばかりでした。 その後、先生は瑞宝中綬章を受賞されましたが、私のように、大学行政にはほとんどタッチせずに自分のことばかりやっていた人間と、両大学で10年にもわたって学長という重要な職責を果たされ、とくに統合という偉大な貢献をなさった人が同じ勲章というのは、合点がいきません。山田元学長までは「勲二等」という学長の「指定席」があり、「勲三等」の一般教員のもらう勲章との間に明確な区別がありましたが、勲章制度が変わって、池田元学長の代から勲二等と勲三等の区別がなくなったために、このような「悪平等」が生じた結果です。しかも、先生はAPUからの推薦による受勲であり、大阪大学の推薦ではなかったことを知り、阪大はなんとも冷たい大学かと思った次第です。さすがの先生も「めでたさも中ぐらいなり….」という感想を漏らしておられました。 80歳という、まだまだお仕事のできるお年でお亡くなりになられたのはご無念のことと思います。先生、どうか安眠されますように、心から御冥福をお祈りいたします。
2024年10月5日
溝上富夫
『今天』誌の「是永先生紀念専輯」を作成しました。→こちら
「生命ある限り、探求は止まない」
-是永駿先生を悼む-
李 慶国
是永駿(これなが しゅん)先生は2024年1月27日に逝去された。享年80歳。先生の訃報に接して言葉では表せない痛みが心の底から湧き上がった。
先生は1943年に福岡県で生まれ、1966年に大阪外国語大学中国語学科を卒業された。出版社に勤務した後、母校の大学院に戻られ、著名な漢学者である相浦杲先生の下で中国文学を研究された。その後、鹿児島経済大学講師、大分大学助教授、大阪外国語大学外国語学部助教授、教授、図書館長、学長を歴任された。退職後は立命館大学に招かれ、立命館アジア太平洋大学の特任教授、教授、副学長、学長、学校法人立命館副総長を務められた。2012年には大阪大学で言語文化学の博士号を取得された。2017年12月に大学学長の職を退任され、2019年4月には教育研究功労賞である瑞宝中綬章を受章された。
是永先生は長年にわたり中国文学研究に尽力し、日中文化交流史上に多くの重要な研究成果を残された。是永先生の研究分野は中国現代文学である。彼は『北島詩集』(1988年)、『芒克詩集』(1990年)、北島の『ブラックボックス(黒匣子)』(1991年)、芒克の『時間のない時間』(1991年)、『中国現代詩三十人集-モダニズム詩のルネッサンス』(1992年)、北島の小説『波動』(1994年)、『現代中国詩集』(共同編訳、1996年)などを次々と翻訳し、また、台湾の学者と共同で『台湾現代詩集』(2002年)を編訳し、台湾現代派詩の代表的作家と作品を紹介された。
『中国現代詩三十人集』では、北島や芒克以外にも、80年代に「朦朧派」と呼ばれた詩人舒婷、顧城、楊煉、多多、江河らの代表作を翻訳しておられる。この詩集には是永先生の現代派新詩に関する重要な研究成果である「中国現代詩論」も収録されており、文化大革命後に興った中国現代派新詩の成果を鋭い洞察力や独特な識見で高く評価し、また彼らの詩作の背景や芸術的探求について深い分析を行われている。是永先生の北島や芒克らの作品の翻訳と研究は、日本の中国現代詩研究を豊かにし、中国現代派新詩の影響力を拡大させただけでなく、日本の詩壇の注目も集めた。著名な詩人で評論家の大岡信氏は、是永先生が翻訳した『北島詩集』の推薦の辞で、「北島の詩は現代中国詩の最も創造的な先端に位置している。瞑想的かつ大胆な発想が生み出す隠喩は多義的な豊かさに満ち、彼の人柄同様魅力的だ。中国の現実に避けがたく深く根ざしつつ、徹底して自我内奥の声であり続けている詩。国際的に人気が高いのも当然である」と高く評価される。是永先生が訳された『芒克詩集』は1991年に日本第29回藤村記念歴程賞を受賞され、その受賞理由は「精緻な日本語で芒克の雄大かつ繊細な詩の世界を表現した」と述べられている。
2009年、是永先生は1989年以降に翻訳した北島の詩作を加えて『北島詩集』を再編集し、出版された。「訳者後記」では「北島が詩作を始めた七〇年代、現代中国は日常的な言論統制下にあった。そうした状況の下で詩の言葉の豊かな『喩』(象徴表現)の世界を解き放つことは、言語そのものの価値の転換を意味する。北島の詩の魅力は、沈思の内奥から閃き放たれるイメージの、遠近の深さ、転位、変容の自在さにある。その詩的イメージ時に透明なリリシズムを湛え、時には強靭なメッセージ性を帯びる。その詩法はメタファー、詩的隠喩への豊かな感性と自律的な気品とによって育まれている」と詳しく述べられている。2021年に北島が第2回日本大伴家持文学賞を受賞したことは、先生の長年にわたる北島詩の翻訳と研究と密接に関連していると言えるだろう。
是永先生は戦後に成長した新世代の学者で、社会主義中国への盲目的な憧れを持たず、同時に欧米の現代主義文学理論と批評方法にも精通されていた。先生の学術論文には伝統的な実証研究の練達と特色が見られると同時に、文体構造、体系、形式、修辞に対する見事な解析も見られる。是永先生の中国現代文学研究は主に茅盾小説研究に表れている。茅盾の長編小説『子夜』、『霜葉紅似二月花』、『蝕』などの作品の「改作」、「続作」、「版本異同」について全面的かつ詳細な校勘を行い、小説の文体、愛欲描写、政治イデオロギーの3つの主要な部分の削除や手直しから、1949年以降の社会体制と文学構築の関係を探究された。その中で、官能と性欲の描写は中国の1950年代以降の文学創作において禁忌となり、一部の現代作家は状況に順応して旧作の重版や再版の際にこのような描写をほとんど削除または修正した。是永先生は作品の校勘を通じて、茅盾のいくつかの削除や修正が原作に損害を与えたことを指摘される。例えば、『子夜』における愛欲描写の一部は、高老太爷の『太上感応篇』の扱われ方と対照して暗い封建性に対する反抗を暗示している。また、他の愛欲描写は登場人物と上流社会の家庭生態を表現しており、それは人物像と有機的に結びついたものであり、削除する必要はない。そのほかに茅盾は原作の中で建国後の社会的イデオロギーや歴史的叙述に反する表現を削除・修正した。例えば、原著の「共匪」を「共軍」に、「匪禍」を「変乱」に、「農匪」を「武装農民」に変更した。1959年に彭徳懐が失脚した後、1963年版の『子夜』では彭の名前さえ消去された。これらの削除や修正は、文体や修辞以外に主に社会体制、イデオロギー及び政治情勢に関連している。是永先生は、この点から着目することで、社会体制と文学構築の中で作家の歪められた心理とその対応方法を見ることができるだけでなく、作家の内面世界を探る重要な手がかりにもなると考えられる。
1985年、香港の『広角鏡』誌に「茅盾との恋愛―秦德君の手記」という記事が掲載され、様々な経路で中国本土に伝わり、茅盾研究と中国現代文学研究界に大きな衝撃を与えた。茅盾は晩年に執筆した長編回顧録『私が歩んだ道』で、日本で1年半以上同居していたこの恋人(秦徳君)の名前に一切触れなかった。是永駿先生は、この「人物事件」の意義が単なる過去の恋愛話やスキャンダルではなく、長編小説『虹』の創作に関わるものだと気づかれた。梅行素(モデルは胡蘭畦)を女主人公とするこの物語は、前半7章が四川で、後半3章が上海で展開するが、茅盾本人は四川に行ったことがない。秦德君の回想によると、『虹』の物語は彼女が直接茅盾に語ったもので、小説のなかの風景描写(四川)や人物の対話は秦が手を加えたものだったそうである。
是永先生は1985年、1988年、1996年の3回にわたって秦德君に直接インタビューを行い、秦の口述と茅盾の回顧録に基づいて、彼らが当時京都の田中高原町に住んでいた場所を実地調査し、この史実の裏付けとなる証拠を提供された。現代の人々は作家の個人的な感情生活をより寛容に見ることができるが、当時は「賢者の恥を隠す」という状況が現代作家と文学史研究においてまだ一般的であった。是永先生は、実証的で真実を追求する厳密な学術精神に基づいて、茅盾の日本滞在期の生活と創作を考察された。その重点は作家個人の恨みや愛情ではなく、『虹』の創作と「史実」、文体構造とリアリズムの関係をさらに考察することで、『虹』の研究に新しい視点と説得力のある結論を提供された。また茅盾が意図的に避けたり曖昧に書いたりしたこの回顧録の部分に、より真実な史料を加えてくれた。是永先生は秦德君にインタビューし、『虹』の史料発掘と作品解析において最も早く重要な成果をあげた海外の学者であると言える。彼の画期的な研究は模範的な意義を持ち、茅盾の個人伝記と研究を豊かにしただけでなく、中国現代文学研究にも貢献された。
是永先生は中国現代新詩の翻訳と研究の過程で、多くの中国人の詩人と知り合い、個人的な交流や文通を行いました。彼は彼らの優れた詩作を熱心に翻訳し紹介しただけでなく、言論統制下で表現の自由を追求し、海外に亡命しても抵抗を続ける学者や詩人たちに力いっぱいの援助を与えた。この点は、先生の慈悲深い心情と人格的魅力をより際立たせるものかもしれない。1990年7月、『今天』誌が海外で復刊した際、是永先生は大いに声援と支持を行っただけでなく、日本側の雑誌購読と連絡の仕事を無償でお引き受けになった。北島や芒克などの中国詩人が日本に来訪した際、先生は彼らのために講演、詩の朗読会やインタビューなどを手配し、ご翻訳、接待、同行なども手配し、多くの時間と労力を費やされた。
学者として是永先生は二つの大学の学長を務められたが、これは日本では多くはないことである。彼は大阪外国語大学と大阪大学の円滑な統合、立命館アジア太平洋大学の建設と国際発展に重要な貢献をされた。注目すべきは、是永先生が忙しい行政と教務の仕事の合間にも、学術研究と翻訳創作を続けたことである。先生は学問でも行政の仕事でも、自ら範を示し、全身全霊で取り組み献身し、まさに学者の模範といっても過言ではない。
是永駿先生は私の恩師である。私が初めて先生にお会いしたのは1985年9月のことで、相浦杲教授、相浦綾子夫人、西村成雄先生と共に東北師範大学を訪問された時であった。当時私は現代文学教研室の助手で、孫中田教授の在職院生でもあり、先生たちの案内役を務めた。相浦杲先生が中文系の院生に「魯迅と厨川白村」、「ロマン・ロランと中国文学」という2つの学術講演をされたのを覚えている。是永駿先生は「中国現代小説の文体と構造」について講演された。日本の学者の流暢な中国語の表現、厳密で堅実な学術的姿勢は、聴講した教師や学生に深い印象を残してくれた。
二年後、相浦先生と是永先生のご助力により、私は幸運にも国費留学生として日本に留学し、是永先生のご指導を受ける機会に恵まれた。
是永先生が大学院で開講された授業の一つに「中国文学演習」があり、教材として川端康成の『雪国』の中国語訳(大陸版と台湾版)を使用されたことを覚えている。演習では、この授業を履修した院生が段落ごとに分担発表し、異なる中国語訳を比較しながら、小説原文の微妙な表現がどのように訳されているかを検討した。『雪国』のような名作の翻訳において、明らかな省略(政治的理由や性的描写などで訳者が意図的に省略したもの)や誤訳を見つけるのは容易ではないが、異文化の背景や特殊な文脈における微妙な表現や雰囲気を適切に伝えるには様々な訳し方があり得る。日本語原文を理解し味わいながら、異なる訳文の表現を対照することは、非常に良い学習体験であった。是永先生は授業でみんなの分かれる意見を非常に重視され、原文の理解が不十分な箇所については丁寧に例を挙げて説明し、川端康成の独特で意味深い描写を味わうよう私たちを導いてくださった。今日思い返すと、当時の授業の様子が昨日のことのように鮮明に蘇ってくる。
私が来日して間もなく、是永先生は私を大阪朝日新聞カルチャーセンターに連れて行ってくださった。日本社会との接触を増やし、日本人の友人を作るため、先生は私を「中国現代小説講座」の助手にしてくださり、講師料の一部を補助の報酬として私に与えてくださった。その期間、私の日本語の会話力とリスニング力が向上しただけでなく、クラスの多くの受講生と友人になり、彼らは様々な面で来日したばかりの私に大きな助けを与えてくれた。是永先生は同様の形で多くの私費留学生を助け、中国語を教える仕事を紹介するなどして、彼らが経済的負担を軽減し、より良く学業に専念できるようにされた。
後に私が京都大学の博士課程に合格し、課程修了後に指導教官の推薦によって三重大学人文学部で教鞭を執ることになった時も、是永先生はいち早くお祝いと励ましの言葉を送ってくださった。私の子供が大阪外国語大学英文学科に合格した時も、先生は大変喜んでくださった。当時先生は大学の学長を務めておられ、「大学に来た時、子供を連れて会いに来なさい」とおっしゃってくださった。子供の遠慮もあり、また先生のお邪魔をするのも気が引けて、結局二世代で教えを受け、旧交を温める機会を逃してしまった。
是永先生は、2017年末に立命館アジア太平洋大学の学長職を退任され、多忙で重責を担う大学運営の仕事を終えられた。その年の年賀状から、先生が重荷から解放されたような喜びを感じ取ることができた。先生が再び学者としての立場に戻られたことを知った。出版計画など、エッセイ集を整理することもあり、もちろんゆっくりと休みを取り、ご家族と過ごす時間を増やし、余裕のある生活を送ることができるようになったかと思う。
昨年9月21日、先生からのお手紙で、中国テレビドラマ『渇望』の「人生の道は長く、上下求索」という歌詞と屈原の『離騒』の詩句「道は遠く険しいが、私は上下に求め続ける」に触れられた。先生はこれを中国文化精神における「絶妙な趣味(雅興)」と考え、自らを励ましておられた。しかし、この手紙から半年も経たないうちに先生が逝去されるとは、まったく想像もしていなかった。あまりにも突然で、本当に心が痛む。
夜更けに、窓の外の雨音を聞きながら、先生との交流や教えを思い返すと、それらの思い出が映画のように目の前に浮かんでくる。灯りの中で、先生の輝く目を見るような気がする。その目は誠実さ、慈愛、そして叡智に満ちていた。先生のご恩は山のように高く、川のように長く、今日に至るまで、先生の懇切な教えと励ましを決して忘れることはできない。先生はきっと別の形で、ご家族や先生を慕う人々の心の中に生き続けることだろう。
二〇二四年二月二十一日、大阪
三月七日、『中文導報』第一四七〇期に掲載(原文中国語)
十二月二十七日に日本語に翻訳、少し修正あり